column フニャンのニャン
当協会杉本彩と旧知の仲である天才心臓外科医 南淵明宏先生の猫コラム「不猫之猫(フニャンのニャン)」
ネコがいないと眠れない「NO ネコ, NO LIFE. 」の先生が綴る猫との暮らしや猫の魅力、猫から学ぶ生き方論など。ほっこり癒される先生のニャンコ日記をどうぞご一読ください。
「宇宙は広い?」
先日、すばらしい映画を観ました。
『宇宙探索編集部』という中国の映画です。中国版の雑誌『ムー』のような雑誌『宇宙探索』を発刊してきたという人たちの映画です。みすぼらしい「編集部」に集う個性ある人たち。映像、展開、テーマ、などなど素晴らしすぎる大傑作です。いろいろなことを考えさせられる名作映画です。テーマは、人間がこの宇宙に存在している意味は何なのか?主人公の唐教授は、その疑問に答えるため、UFOで地球に来訪している宇宙人(星外人)を探し出し、UFOにのせてもらってひろい宇宙を「探索」しようとしています。これ以上はネタバレになるので公式ホームページの範囲内にとどめることにします。
しかしそれにしても、宇宙の果てまで行けたとしても、ネコよりもかわいらしい、上品で調和のとれた、知的でエレガントな生物が広い宇宙のどこかで見つかるのでしょうか?私はそんなことは絶対にありえないと思います!この広い宇宙を探し回っても、ネコよりかわいらしい「物体」はありえません!
そんなことを言うと、「ネコよりかわいい存在を探すために宇宙計画があるわけではない」
と言われるかもしれません。そのとおり。しかし「火星に行く」とか「地球外生命体の存在を証明するために木星の衛星エウロパに探査船を飛ばす」などと言われても「そんなにお金があるのなら、そのお金で世界の紛争は解決に向かうのに……」
何かを見つけようとすることで、探していたものとは違う、思いもよらないものが見つかることがあります。セレンディピティとかいうらしいのですが、「服を買いに行ったらいい靴があったので靴を買っちゃった!」というやつです。
宇宙探索で最上位のネコの下位に連なって位置付けられているパンダ、カピバラ、ウーピールーパー、レッサーパンダ、イヌの順位に割り込む存在が見つかるかも知れません。
ライオン、トラ、ひょう、チータ。世界中にはいろいろなネコの仲間がいます。
彼らの生まれたばかりの赤ちゃんはネコです。そして日頃私たちの面倒を見てくれているネコ以外、みな野生です。私たちのネコさんたちはひょっとしたらもっと大型の動物であったのが、成長しないで子供のままでいるのでしょうか。これを専門用語で幼形成熟、ネコテニーというそうです。人類を支配することで「成長を中止した」のでしょうか。何かの拍子に成長が再開し、巨大な「ニャン獣」になってしまうかもしれません。でもやっぱりきっと、かわいらしいにちがいありません。
一方のイヌにもいろいろな種類がありますが、みな人間と共存しています。オオカミなどの野生のイヌは地球上からいなくなってしまいそうです。
むかしオーストラリアのタスマニア島にタスマニアン・タイガーという、シマ模様のイヌがいたそうです。イヌにもトラやうちのサバトラのにゃん次郎と同じシマ模様がいたのです。タイガーというからにはトラと同じだったのか?それともにゃん次郎と同じであったのか?
ここで「あれっ?トラのネコのシマ模様って違うの?阪神タイガースと実際のトラのシマ模様の違いは分かるけど…」と思った人がいるのではないでしょうか。
トラとネコの模様は違います。顔の額の模様が明らかに違います。トラはシマ模様が横で、真ん中から外側に向かってシマ模様ですが、ネコの額のシマ模様は縦です。イリオモテヤマネコもツシマヤマネコも同様です。トラと同じ色合いの、黄色に黒のストライプのベンガルネコも同じく、額は縦のシマ模様です。
このことを勤務中の看護師さん達に尋ねてみました。
「ネコのシマ模様と、実際のトラの模様が違うの知ってる?」
「知ってます!」
ネコを飼っていない看護師さん10人中8人までが知っていました。
「だって『シマジロウ』は…」
なるほど!子供がいる看護師さんはトラと言えばみんなトラの『シマジロウ』の顔を思い浮かべるようです。
ところが自分のネコを携帯の待ち受けにしている看護師さんに尋ねてみると、あれれ?
5人中、一人しか「違い」を理解していませんでした。
「うちのヒカリちゃんにシマ模様はないんです」
無理もない回答です。
この現象の理由を科学者として適当にいいかげんに出まかせで解釈すると、ネコが好きな人はネコがあまりにもかわいいので、模様などどうでもいいのでしょう。ネコを特別視していない人は、この地球上に生息するその他大勢の動物の一つとしか見ていないので、それぞれの「違い」に敏感なのかも知れません。全体を一望したうえで、それぞれの違いを客観的に判断する。今はやりの「推し(おし)」の反対です。
世の中には「負け組」と「勝ち組」という言い方があります。私はというとイケメンでもないし、くじや
かけ事では100戦100敗!負けてばかりです。「負け組」「勝ち組」の発想は、いかにも「競争」が前提の西欧合理主義的な殺伐とした視点です。
人々の集団があい争うことがないように、大自然に溶け込んで特定の動物を旗印にして社会を維持するトーテミズムという『思考』が太古からあるそうです。それからすると私の場合、「ネコ組」です。これは確実に言えます。もちろんその対極というかライバルというか、トーテミズム的には「半族」とよぶらしいのですが、「イヌ組」さんがおられることでしょう。世の中には他にも「パンダ組」、さらには「イグアナ組」とか「クマムシ組」とか、いろいろな「半族」がいらっしゃるのかも知れません。
トーテミズムの社会では貧富の差や権力の集中はありません。そんな中で「ネコ組」ではネコのような生き方を「よし」とします。つまり、
そしてイヤなこと、ややこしいヒトが目の前に現れたら「プイッ」と離れて去ってしまう!
こんな「ネコ組」の生き方はストレスがありません。
「心配事なんか何もなーい!」
「ネコに生まれてきて本当に良かった!」
という顔をして寝ています。みなさんも「ネコ組」になって、この境地に達するべきです。
さらにネコ組の人はネコのように大きな目を見開いて、何事も「疑いの目」で吟味します。
そして最後に「過ぎた過去は気にしない!」
ネコが昔のことを思い出してイヤな顔をしているところなんか見たことがありません。
それに、今までに皆さんが出会ったイヤな人はその後どうしたかというと、きっとみんなから嫌われて孤独になって、寂しい死に方をしているに違いありません。知らんけど…。
とにかく何事も「気にしない!」。
一人でも多くの人が「ネコ組」になって、こういうことを日常で実践すればよろしいかと思います。そうすれば、戦争なんかゼッタイに起こらないはずです。
最近、にゃん次郎の様子が変わったような気がする。すこしにおいが違うような、鼻を触った時の感触が以前より硬くなっているような。右手の裏にあった長い触毛もなくなっている。
すると、ある時ネコをたくさん買っている女性からこんな話を聞いた。
「たくさん猫を飼っているんですけど、ミケさんがどっかへ行ったと思ったら三日後に戻って来たんですが、どうももとのミケさんと違うネコのような気がするんですよね。でもネコさんたちみんな幸せそうだから、気にしてません」
確かに同じ模様だと判別がつきにくい。ひょっとしてにゃん次郎も別のネコと入れ替わっているのだろうか。
私の場合、医者をやっていてたくさんの患者さんを診ている。いろいろな職業の人がいるのだが、長年、いなくなったネコを探すネコ探偵業を営んでいるという、柄本明さん似の80代男性に尋ねてみた。
「飼っているネコが入れ替わるなんてあるんですか?」
自称ネコ探偵の男性は上目使いに大阪弁で、
「センセイは何もわかっていませんねぇ。アホまるだしですよ!わたしこの前、50年生きたネコがいなくなったという依頼を受けました。もっとすごい、死んだおばあちゃんが子供の時から飼っているとかいう、100年ぐらい生きていることになる、すっごいネコの捜索願もありましたよ。」
自分が飼っている、というか一緒に生活しているネコが知らない間に別のネコと入れ替わっている、ということはあり得るのかもしれない。ひょっとしたらネコの集会で、同じ模様のネコ同士がそういう申し合わせをして、人間にはわからないように行動を起こしているのだろうか。その行動の合理的な目的の一つ考えられるのは、ネコの寿命と飼い主の寿命を調整することが考えられる。双方の寿命を合致させるのである。考えてみると、それはネコが人類を支配するため、この10,000年の間に生み出したシステムなのかもしれない。
私の目の前にいるネコは、いったいどういう素性のネコなのだろうか。
なににしろ、ネコはネコであってもらうだけで十分だ。向こうにも都合があるのだろう。我々が気にする必要などない。
ネコはキレイ好き!と誰もが思っています。
「捕食者」として自分のにおいを消していなければ獲物を捕獲できない、という事情もあるようですが、いつもキレイにしています。
容器からこぼれ落ちた食べ物が腐っていたり、排泄物が散らばっていたり。そういうところは大嫌いのようです。
だからネコのいるうちはいつもキレイに掃除して、家具も整頓して、冷蔵庫の扉に付箋なんか一枚も貼っていないような、セキスイハウスのテレビCMのような「キレ―イ!」なお家を維持している。という人もたくさんおられることでしょう。
「いや、それ、明日やるから、ゼッタイ。明日は休みだからちゃんとしようと思って…」とか言いながら、なかなかキレイにできない人もいらっしゃることでしょう。
ではネコはどちらを好むのでしょう?というか、部屋が散らかっているかいないか、人間の基準の「キレイにしている」という状態をどう評価するのでしょうか?
ネコに尋ねてみないとわかりません。
とにかく50年以上放映されているセキスイハウスのテレビCMのようなキレイな部屋である第一条件は、「モノが少ない」に徹することだと思います。
私は海外のいろいろな病院で心臓の手術をさせていただきましたが、一番キレイだったのはインドネシアのバンドンの病院でした。部屋はほとんどすっからかん!とても広くて、不安になるぐらい心地よい環境です。その点、日本の手術室は雑然として、年の瀬の「アメ横」のような賑わいです。人工心肺装置、超音波装置、自己血回収装置、熱交換器、など必要不可欠なもの以外に、針や糸などの消耗品の箱や用途不明のカートなど、所狭しと空間を占拠しています。理由はわかりません。
でも手術中に看護師さんにお願いすれば何でも出てきます。「アレ頂戴!アレ!すぐに出して!」「わかりました、センセイ、いつものアレですね」「そうそうアレ、その次はソレね。いつものソレ」「ソレですね!ハイわかりました」てな具合です。
日本と違って、すっきりと手術室が片付いているのはインドネシアの文化なのでしょう。
そう言えばそんなバンドンの病院で手術をしている時、突然大きなカミナリが鳴り響きました。そしてあたりは真っ暗に!停電したのです。手術室は闇に包まれました。しかし次の瞬間、人工心肺技士さんがすぐさまでっかい懐中電灯で術野を照らしてくれました。
「ここのスタッフは停電にものすごく手馴れているな」と感心しました。すっからかんに見える手術室でも必要なものはしっかり揃えられているのです。「停電はよく起こるのか?」と私が尋ねると、人工心肺技士は「めったにない!先週はなかった」ですって!
私はネコの人、つまり猫人(ねこうど)です。大学の時は『大学のネコ大将』でした。地方の大学でしたが…。
寝るときいつもネコを抱いて寝ます。至福の時間です。
どれぐらい至福かというと、「死ぬほど至福」です。その瞬間に死んでもいいと思うぐらいに充たされた気持ちになります。ドイツのフッサールという哲学者は、死ぬことを意識することで今現在、自分が生きているこの瞬間を意識する、というふうなことを、多分、言っていた気がします。
瞑想して心を充実させる「マインドフルネス」とか言う作業の目的は、「今を意識する」ということだそうです。我々の日常は受験や相続といった先のことや「あいつのせいでこうなったんだ!いつか仕返ししてやるぞ!」みたいに、過去に心をとらわれてしまいがちです。未来もあれやこれや不安です。マインドフルネスとは、そんな日常で「今この瞬間の自分」を取り戻す、ということだそうです。言われてみればそれは素晴らしいことだと思います。しかし猫人の場合、瞑想は必要ありません。ネコを抱いているとすべての執着から完全に開放されるからです。そして「今、この至福の瞬間」を意識しています。
猫人は常にマインドフルネスを実践しているのです。
ひょっとしたらネコが好きだから、ではなく本能的にマインドフルネスの瞬間を求めて、ネコに触れる、という手法を会得した人がネコ好き、猫人になったのかも知れません。
大ヒットした映画『ジュラシック・パーク』(1993年)で杉本彩さんのようなスリムで知的な古生物学者を演じるのは女優ローラ・ダ-ンさんです。彼女の出演映画に『マスク』(1985年)というのがあります。この映画は、頭蓋骨の形成異常で顔面が変形する「ライオン病」の実在の少年、ロッキー・デニスの物語です。ローラ・ダ-ンさんはロッキーの恋人役で、目の不自由な少女役を演じます。ロッキーは、薬物中毒で短気な母親といつもケンカになるのですが、そんな時ロッキーは部屋に閉じこもり泣きながら野球カードを取り出してベッドの上に並べて心を鎮めようとします。
ロッキーにとって野球カードを眺めることはマインドフルネス作業だったのでしょう。映画ではロッキーの容姿を何ら気にせず、親しく付き合い、受け入れ、尊敬する多くの人たちが描かれています。ロッキーの人間性、努力、思いやり、態度に感銘を受けた人がたくさんいたのでしょう。心温まる名作の中の名作です。ロッキーの家にもネコがいたらよかったのに…。
ネコが好きな人ならば誰でも知っていることですが、ネコは正確には「ニャン」とは鳴きません。
「アーン」とか、「ミュー」とか、「ニューン」とか、「ムワーオ」とか、「メオン」とか。ネコは「ニャン」と鳴く、と世間では決まっているようですが、現実には「ニャン」とは鳴くことはありません。ところがものすごくまれに、「ニャン」と鳴くときがあります。しゃべった日本語を文字する機械にかければ、「ニャン」と表示されるような「ニャン」です。つまり文字どおりの「ニャン」です。
先日、うちのニャン次郎が朝出かける前に「ニャン」と鳴きました。夢かうつつか、まぼろしか?驚いてしまいました。奇跡です。ひょっとしたら今年は阪神タイガースが優勝するのかもしれません!ネコがどれほどしっかりと正確に美しく、NHKのアナウンサーのように「ニャン」と鳴くか、というコンクールを開催するのも楽しいかも知れません。名付けて「ネコニャン選手権」です。「何それ?何と鳴こうが、ウチのニャンちゃんは特別にかわいいからいいじゃない!」NHKに出演するわけではないので、一億総国民が納得できる聞き取りやすい「ニャン」と鳴くネコがエライのかどうか、どう評価するかは皆さんそれぞれでしょう。
それにしても人間の言葉について、いつも不思議に思っていることがあります。私が「アー」と言うのと、杉本彩さんが「アー」と言うのは、同じ「アー」でもぜんぜん違います。声の高さも太さも気品も違います。でも書いたら「アー」です。
「おはようございます」と言えば、相手も「おはようございます」声の高さも大きさも音色も違います。にもかかわらず、我々の頭の中では文字が浮かんできて、一様に「おはようございます」。声という音の中に含まれた何かを感知して、人間は理解しているのでしょう。その「何か」は物理や数学では理解できない、もっとすごい何かかも知れません。いや、ひょっとしたら音ではない、別の方法で人間同士は情報を交換しているのかも知れません。人間の脳の働きはまだまだ知られていない部分も多いのですから。
それにしてもネコはいろいろな声で鳴きます。毎日新しい違う鳴き方をしている気がします。さまざまな主張が込められているのでしょう。あるいは我々人類の未来への提言でしょうか。いややはり、ただひたすら「ゴハンちょーだい!」なのでしょうか。ネコと暮らしている人ならその点、ご賛同いただけると思います。
夫婦別姓が議論されています。
「同じ家に住んでいるんだから苗字は同じであるべきだ」などと言う意見は自然であるように思えますが、「一人娘が結婚して夫の姓になったら自分の苗字が無くなってしまう!」と心配される人も多いことでしょう。
では家族の一員のネコやイヌも同じ苗字で統一されているのでしょうか?
つまり山田さんのミケさんは山田ミケさんとなるのでしょうか?NHKの「0655」と言う番組の「私ネコ」「吾輩はイヌ」では苗字が紹介されることはありません。つまりNHK的にはネコや犬には苗字がないようです。ところで苗字って何でしょう?
先日NHKの、名前がテーマのあの番組でわかりやすく説明されていました。「氏」とは血族の集団で、「家」はある地域に住んでいる集団、ということだったそうです。だから平清盛は「氏」は平氏で「家」は六波羅家、つまり平氏の六波羅清盛でーす!ということになるようです。なるほどです。京都の藤原氏には「分家」がたくさんあって、それぞれ住んでいるところが呼ばれるようになって、一条さんは藤原氏なんだけど、一条に家があるから「一条家」、という具合いです。たくさんある藤原家は五摂家、七清華家とか「ユニット」のくくりでも呼ばれていますが、それだけでも12種類あります。もちろん現代は苗字の意味合いは変わっています。「『役所の仕事をし易くするための便宜的な人の集まりの単位』で、税金獲ったりするためだよ!」との意見も聞こえてきます。つまり「行政行為」の道具、つまり記号に過ぎないのかも知れません。
「家族って絶対的に大事だぁ!家族は一つ、家族は団結、家族は一丸」という意見もあるでしょう。
1997年の出来事ですが、ICUに緊急入院した患者の奥さんが面会に来て
「あのぉ、主人が自分の名前を書けるぐらいに回復するのはいつ頃でしょうか?」
と不安そうにお尋ねになられていたことを想い出します。この意味。どいうことか、みなさんはすぐにわかりますよね。
幸いこの患者さんは元気に回復して奥さんの持ってきた書類にサインさせられ、退院されました。
外来診察に来られて「家に帰ったらすっからかんになっていて、ちゃぶ台一つ残ってなかったよ!ガハハハ」とおっしゃっていました。
「家族って不幸の最小単位なのよねぇ」という人もいます。そんな人にネコがいたら「申し訳なくてうちの苗字なんて付けられない!ネコはネコ!でもどうせつけるなら高貴なお名前がいいかな。『扇ヶ越』(オウギガエツ)か『万里小路』(マデノコウジ)、いや『聖護院』(ショウゴイン)がいいかしら。『花山院』(カザンノイン)にしよう!」
人間も勝手気ままに自分の苗字や名前をつけられたらいいですよね。
私の場合、「大和猫人(やまとのねこうど)」でどうでしょう?
ご近所の小学校で、卒業を迎えた6年生に「お仕事」についてお話する機会がありました。
事前に宿題を出して下さい、と言われたので、私は
「ニャンちゃんとワンちゃんはどちらが賢いとおもいますか?理由も書いてください」
という宿題を出しました。結果は「ワンちゃんが賢い」が圧倒的多数。105人の生徒で8対2で「ワンちゃんが賢い」の勝利です。多かった「理由」は「盲導犬、遭難救助犬、警察犬、麻薬犬なんかもいて人を助けるから」まっとうな意見です。犬は賢い!すごく賢い!異論はありません。でもそれって人間の価値観!?人間にとっての利用価値、人間が都合よく利用できるから、とも言えます。もちろん犬だって人間の役にたつのが喜び、好きでやっていると思います。その価値を共有してくれていると思います。
一方ニャンちゃんが賢いと答えた人の中には「ネコ自身の価値観で行動するから」という答えがありました。私の期待通りです。はっきり言って、猫はぜんぜん人間の役には立ちません。勝手気ままに自分のやりたいことだけやって、優雅に生きている。だからいいんです。自由主義者、いや無政府主義者というべきでしょうか。
ヒトも、自分の価値観でそれぞれ自由に行動するべきだと思います。上司や周囲の目ばかり気にして、本当にやるべきことを忘れてしまっている人が社会にはたくさんいます。もちろん他人や社会の役にたつことに価値がある、人生は忍耐だ、と言う想いは皆さん同じです。そうではなく、「自分は自分のやり方でやる」と自信満々で自分を貫き通す人もたくさんいらっしゃると思います。そんな人にとって、世の中の「エライ人vs.偉くない人」「お金持ちvs.貧乏人」「権力者vs.へいこらしている人」の序列というか、そんな社会のきまりが見えません。というか「何で?」と理解できません。私もそうでした。「上司には逆らってはいけない」「先輩の言うことは聞くべき」という「決まり」がまず私には理解できないのです。人類みな平等。職業に貴賎なし。自分本位で堂々としていて、偉そうに言う人の命令などぜんぜん聞かない人。それってネコみたい、だと思います。
世の中にはいろいろな人がいて、物事にはいろいろな見方がある、一つの見方にはその反対の視点もある。視点を変えれば全く違う価値観が生まれてくる。自分たちの見方はひょっとしたら間違っているかも知れない。そんなことを生徒たちに理解いただいたと思います。
この度エッセイを連載させていただく南渕明宏(なぶち あきひろ)と申します。
これまで人間の心臓の手術をして生計を立てて参りました。
世間の皆様に感謝しております。が、ネコにも感謝しています。小さいときからずうっとネコと一緒に暮らしてきたからです。小さいときはネコがいないと眠れませんでした。ネコと一緒でないと眠れない、ではなく、ネコと一緒でないと寝ようとしない子供だったのです。
そんな日常があるとき奪われました。小学校4年の12月の日曜日の夜中、急に親戚の家に移ることになったのです。いわゆる「夜逃げ」です。当時私は奈良の八木の札の辻というところに住んでいました。そのころ両親は大阪で商売をしていて、半年ぐらい顔を見ていませんでした。両親はいつも忙しそうでした。その夜突然、知らないおじさんが家に入って来て「勉強道具をこの箱に詰めろ」と言われてミカン箱を渡されました。そして私と兄はあわててトラックに乗せられました。その時ネコのクーロンを連れて行くことができませんでした。あれからクーロンはどうなったのだろう?55年経った今でも思い出します。それから生活の中でネコがいなくなったせいか、しばらくの間私は夜、なかなか眠ることができなくなりました。小学生のくせに不眠症になったのです。大阪万博の頃です。
それから私は修行に励みました。「不猫之猫」の修行です。これは「フニャンのニャン」と読みます。よく似た言葉に「不射之射」というのがあります。聡明な方、特に中島敦の『名人伝』をご存知の方はおわかりでしょう。
むかし中国の邯鄲に紀昌という男がいました。弓の技術を極めようと名人に弟子入りし、修行の末師匠と互角の腕前にまで上達します。さらに上を目指して仙人の弟子になって弓の腕前を極めました。そして弓を射ることなく、気合だけで飛ぶ鳥を射落とすことができるようになったのです。『不射之射』です。中島敦は『列子・湯問編』を題材としています。
これでみなさんは『不猫之猫』の境地をご理解いただけたでしょう。
『不猫之猫』とは、ネコがいなくてもネコがいるのとおなじ境地に達することで、布団の中で安眠できるという「名人」の域なのです。
その後わたしは大人になって自分で金を稼ぎ、ネコと一緒に暮らせるようになりました。そんな状況では、「不猫之猫」の修行は中断しています。あれから50年以上たったのに、未だに『不猫之猫』免許皆伝には達していないのです。今のところネコがいない環境に押し込められる心配はないのですが、これからはわかりません。病気をして入院した時など、人はネコと引き離されます。すると精神的安寧が得られないと思います。それに死んでしまったらどうでしょう。あの世にネコはいないのではないか、とても心配です。
先日、大佛次郎の随筆「猫のいる日々」を読んでいると、冒頭で大佛次郎も同じように心配している様子が書かれていました。「人はみな、同じなのだなぁ」と思いました。
人間にとって、「不猫之猫」の境地に達することは終活の基本だと思います。
(2022/06/15 次回に続く)
1958年、大阪府生れ。
奈良県立医科大学卒。国立循環器病センターレジデント、セント・ビンセント病院(シドニー)フェロー、国立シンガポール大学など海外の病院に勤務。
92年に帰国後、新東京病院、医療法人公仁会大和成和病院、大崎病院東京ハートセンターなどを経て、現在は昭和大学横浜市北部病院循環器センター教授として、年間200例以上の心臓外科手術を行なっている。心拍動下(オフポンプ)冠状動脈バイパス手術のスペシャリスト。
著書に『ブラック・ジャックはどこにいる?』『心臓は語る』『患者力』『釣られない魚が大物になる』『心臓外科医の挑戦状』『医者の涙、患者の涙』などがある。
心臓外科医 南淵明宏公式サイト:http://www.nabuchi.com/