column フニャンのニャン
当協会杉本彩と旧知の仲である天才心臓外科医 南淵明宏先生の猫コラム「不猫之猫(フニャンのニャン)」
ネコがいないと眠れない「NO ネコ, NO LIFE. 」の先生が綴る猫との暮らしや猫の魅力、猫から学ぶ生き方論など。ほっこり癒される先生のニャンコ日記をどうぞご一読ください。
ネコが好きな人ならば誰でも知っていることですが、ネコは正確には「ニャン」とは鳴きません。
「アーン」とか、「ミュー」とか、「ニューン」とか、「ムワーオ」とか、「メオン」とか。ネコは「ニャン」と鳴く、と世間では決まっているようですが、現実には「ニャン」とは鳴くことはありません。ところがものすごくまれに、「ニャン」と鳴くときがあります。しゃべった日本語を文字する機械にかければ、「ニャン」と表示されるような「ニャン」です。つまり文字どおりの「ニャン」です。
先日、うちのニャン次郎が朝出かける前に「ニャン」と鳴きました。夢かうつつか、まぼろしか?驚いてしまいました。奇跡です。ひょっとしたら今年は阪神タイガースが優勝するのかもしれません!ネコがどれほどしっかりと正確に美しく、NHKのアナウンサーのように「ニャン」と鳴くか、というコンクールを開催するのも楽しいかも知れません。名付けて「ネコニャン選手権」です。「何それ?何と鳴こうが、ウチのニャンちゃんは特別にかわいいからいいじゃない!」NHKに出演するわけではないので、一億総国民が納得できる聞き取りやすい「ニャン」と鳴くネコがエライのかどうか、どう評価するかは皆さんそれぞれでしょう。
それにしても人間の言葉について、いつも不思議に思っていることがあります。私が「アー」と言うのと、杉本彩さんが「アー」と言うのは、同じ「アー」でもぜんぜん違います。声の高さも太さも気品も違います。でも書いたら「アー」です。
「おはようございます」と言えば、相手も「おはようございます」声の高さも大きさも音色も違います。にもかかわらず、我々の頭の中では文字が浮かんできて、一様に「おはようございます」。声という音の中に含まれた何かを感知して、人間は理解しているのでしょう。その「何か」は物理や数学では理解できない、もっとすごい何かかも知れません。いや、ひょっとしたら音ではない、別の方法で人間同士は情報を交換しているのかも知れません。人間の脳の働きはまだまだ知られていない部分も多いのですから。
それにしてもネコはいろいろな声で鳴きます。毎日新しい違う鳴き方をしている気がします。さまざまな主張が込められているのでしょう。あるいは我々人類の未来への提言でしょうか。いややはり、ただひたすら「ゴハンちょーだい!」なのでしょうか。ネコと暮らしている人ならその点、ご賛同いただけると思います。
(2023/03/15 次回に続く)
夫婦別姓が議論されています。
「同じ家に住んでいるんだから苗字は同じであるべきだ」などと言う意見は自然であるように思えますが、「一人娘が結婚して夫の姓になったら自分の苗字が無くなってしまう!」と心配される人も多いことでしょう。
では家族の一員のネコやイヌも同じ苗字で統一されているのでしょうか?
つまり山田さんのミケさんは山田ミケさんとなるのでしょうか?NHKの「0655」と言う番組の「私ネコ」「吾輩はイヌ」では苗字が紹介されることはありません。つまりNHK的にはネコや犬には苗字がないようです。ところで苗字って何でしょう?
先日NHKの、名前がテーマのあの番組でわかりやすく説明されていました。「氏」とは血族の集団で、「家」はある地域に住んでいる集団、ということだったそうです。だから平清盛は「氏」は平氏で「家」は六波羅家、つまり平氏の六波羅清盛でーす!ということになるようです。なるほどです。京都の藤原氏には「分家」がたくさんあって、それぞれ住んでいるところが呼ばれるようになって、一条さんは藤原氏なんだけど、一条に家があるから「一条家」、という具合いです。たくさんある藤原家は五摂家、七清華家とか「ユニット」のくくりでも呼ばれていますが、それだけでも12種類あります。もちろん現代は苗字の意味合いは変わっています。「『役所の仕事をし易くするための便宜的な人の集まりの単位』で、税金獲ったりするためだよ!」との意見も聞こえてきます。つまり「行政行為」の道具、つまり記号に過ぎないのかも知れません。
「家族って絶対的に大事だぁ!家族は一つ、家族は団結、家族は一丸」という意見もあるでしょう。
1997年の出来事ですが、ICUに緊急入院した患者の奥さんが面会に来て
「あのぉ、主人が自分の名前を書けるぐらいに回復するのはいつ頃でしょうか?」
と不安そうにお尋ねになられていたことを想い出します。この意味。どいうことか、みなさんはすぐにわかりますよね。
幸いこの患者さんは元気に回復して奥さんの持ってきた書類にサインさせられ、退院されました。
外来診察に来られて「家に帰ったらすっからかんになっていて、ちゃぶ台一つ残ってなかったよ!ガハハハ」とおっしゃっていました。
「家族って不幸の最小単位なのよねぇ」という人もいます。そんな人にネコがいたら「申し訳なくてうちの苗字なんて付けられない!ネコはネコ!でもどうせつけるなら高貴なお名前がいいかな。『扇ヶ越』(オウギガエツ)か『万里小路』(マデノコウジ)、いや『聖護院』(ショウゴイン)がいいかしら。『花山院』(カザンノイン)にしよう!」
人間も勝手気ままに自分の苗字や名前をつけられたらいいですよね。
私の場合、「大和猫人(やまとのねこうど)」でどうでしょう?
(2022/12/15 次回に続く)
ご近所の小学校で、卒業を迎えた6年生に「お仕事」についてお話する機会がありました。
事前に宿題を出して下さい、と言われたので、私は
「ニャンちゃんとワンちゃんはどちらが賢いとおもいますか?理由も書いてください」
という宿題を出しました。結果は「ワンちゃんが賢い」が圧倒的多数。105人の生徒で8対2で「ワンちゃんが賢い」の勝利です。多かった「理由」は「盲導犬、遭難救助犬、警察犬、麻薬犬なんかもいて人を助けるから」まっとうな意見です。犬は賢い!すごく賢い!異論はありません。でもそれって人間の価値観!?人間にとっての利用価値、人間が都合よく利用できるから、とも言えます。もちろん犬だって人間の役にたつのが喜び、好きでやっていると思います。その価値を共有してくれていると思います。
一方ニャンちゃんが賢いと答えた人の中には「ネコ自身の価値観で行動するから」という答えがありました。私の期待通りです。はっきり言って、猫はぜんぜん人間の役には立ちません。勝手気ままに自分のやりたいことだけやって、優雅に生きている。だからいいんです。自由主義者、いや無政府主義者というべきでしょうか。
ヒトも、自分の価値観でそれぞれ自由に行動するべきだと思います。上司や周囲の目ばかり気にして、本当にやるべきことを忘れてしまっている人が社会にはたくさんいます。もちろん他人や社会の役にたつことに価値がある、人生は忍耐だ、と言う想いは皆さん同じです。そうではなく、「自分は自分のやり方でやる」と自信満々で自分を貫き通す人もたくさんいらっしゃると思います。そんな人にとって、世の中の「エライ人vs.偉くない人」「お金持ちvs.貧乏人」「権力者vs.へいこらしている人」の序列というか、そんな社会のきまりが見えません。というか「何で?」と理解できません。私もそうでした。「上司には逆らってはいけない」「先輩の言うことは聞くべき」という「決まり」がまず私には理解できないのです。人類みな平等。職業に貴賎なし。自分本位で堂々としていて、偉そうに言う人の命令などぜんぜん聞かない人。それってネコみたい、だと思います。
世の中にはいろいろな人がいて、物事にはいろいろな見方がある、一つの見方にはその反対の視点もある。視点を変えれば全く違う価値観が生まれてくる。自分たちの見方はひょっとしたら間違っているかも知れない。そんなことを生徒たちに理解いただいたと思います。
(2022/09/15 次回に続く)
この度エッセイを連載させていただく南渕明宏(なぶち あきひろ)と申します。
これまで人間の心臓の手術をして生計を立てて参りました。
世間の皆様に感謝しております。が、ネコにも感謝しています。小さいときからずうっとネコと一緒に暮らしてきたからです。小さいときはネコがいないと眠れませんでした。ネコと一緒でないと眠れない、ではなく、ネコと一緒でないと寝ようとしない子供だったのです。
そんな日常があるとき奪われました。小学校4年の12月の日曜日の夜中、急に親戚の家に移ることになったのです。いわゆる「夜逃げ」です。当時私は奈良の八木の札の辻というところに住んでいました。そのころ両親は大阪で商売をしていて、半年ぐらい顔を見ていませんでした。両親はいつも忙しそうでした。その夜突然、知らないおじさんが家に入って来て「勉強道具をこの箱に詰めろ」と言われてミカン箱を渡されました。そして私と兄はあわててトラックに乗せられました。その時ネコのクーロンを連れて行くことができませんでした。あれからクーロンはどうなったのだろう?55年経った今でも思い出します。それから生活の中でネコがいなくなったせいか、しばらくの間私は夜、なかなか眠ることができなくなりました。小学生のくせに不眠症になったのです。大阪万博の頃です。
それから私は修行に励みました。「不猫之猫」の修行です。これは「フニャンのニャン」と読みます。よく似た言葉に「不射之射」というのがあります。聡明な方、特に中島敦の『名人伝』をご存知の方はおわかりでしょう。
むかし中国の邯鄲に紀昌という男がいました。弓の技術を極めようと名人に弟子入りし、修行の末師匠と互角の腕前にまで上達します。さらに上を目指して仙人の弟子になって弓の腕前を極めました。そして弓を射ることなく、気合だけで飛ぶ鳥を射落とすことができるようになったのです。『不射之射』です。中島敦は『列子・湯問編』を題材としています。
これでみなさんは『不猫之猫』の境地をご理解いただけたでしょう。
『不猫之猫』とは、ネコがいなくてもネコがいるのとおなじ境地に達することで、布団の中で安眠できるという「名人」の域なのです。
その後わたしは大人になって自分で金を稼ぎ、ネコと一緒に暮らせるようになりました。そんな状況では、「不猫之猫」の修行は中断しています。あれから50年以上たったのに、未だに『不猫之猫』免許皆伝には達していないのです。今のところネコがいない環境に押し込められる心配はないのですが、これからはわかりません。病気をして入院した時など、人はネコと引き離されます。すると精神的安寧が得られないと思います。それに死んでしまったらどうでしょう。あの世にネコはいないのではないか、とても心配です。
先日、大佛次郎の随筆「猫のいる日々」を読んでいると、冒頭で大佛次郎も同じように心配している様子が書かれていました。「人はみな、同じなのだなぁ」と思いました。
人間にとって、「不猫之猫」の境地に達することは終活の基本だと思います。
(2022/06/15 次回に続く)
1958年、大阪府生れ。
奈良県立医科大学卒。国立循環器病センターレジデント、セント・ビンセント病院(シドニー)フェロー、国立シンガポール大学など海外の病院に勤務。
92年に帰国後、新東京病院、医療法人公仁会大和成和病院、大崎病院東京ハートセンターなどを経て、現在は昭和大学横浜市北部病院循環器センター教授として、年間200例以上の心臓外科手術を行なっている。心拍動下(オフポンプ)冠状動脈バイパス手術のスペシャリスト。
著書に『ブラック・ジャックはどこにいる?』『心臓は語る』『患者力』『釣られない魚が大物になる』『心臓外科医の挑戦状』『医者の涙、患者の涙』などがある。
心臓外科医 南淵明宏公式サイト:http://www.nabuchi.com/